2015年11月24日火曜日

落ち葉

冷たい雨が時折降り、その度に秋が深まっていきます。
公園の木々は色づき、雨で落ちた葉は道路を彩りました。

正午、美しい落ち葉を選んで拾っていたら、またぽつぽつと雨が降り始めました。
葉を自転車の籠に入れて、急いで家に戻ると、お気に入りの葉が籠からはらはらと落ちていきました。
暖かい色の諧調が僕の通った道を飾ります。

最近は自らの少年時代を思い出しながら絵を描いています。
断片的な記憶を一つの画面で出会わせることで、作品に複数の視座を作り、暗示的な奥行きを表現するのです。
しかし、普段のクリアな描写との相性が難しく、2012年から試みてはいるのですが、未だに完成できたことがありません。
今回は多少強引だとしても、作品を現出させようと思っています。

残った落ち葉10枚を壁に貼付けてみると、それは過去からやってきたものかのように、とても親しく感じました。

2015年11月16日月曜日

白い雲

日曜の午後、考え事をしながら部屋に籠っていると、部屋全体に自分の意識が溶け出してしまい、逃げ場のない不安に駆られることがあります。

近所のポストに手紙を投函するために外に出ました。
空には想像以上にあっけらかんとした様子で白い雲が浮かんでいます。

しばらくその様子を眺めていると、行き場がないと感じていた不安も宙に浮かび、実際以上にそのことを重大に考えている気がしました。

頭の中に広がった妄想は、創作の種となりますが、現実に作品を生み出すためには足枷となることも多いのです。

2015年11月6日金曜日

街中のクルミ

夜の繁華街で探し物をして歩きました。

殻に包まれたクルミが見つかりません。
この街はものに溢れているようで、本当に必要なものが手に入らないのです。

やけに明るいペットショップに入り、かわいい子猫たちのケースを抜けて、小動物の餌の棚に向いました。
そこには殻から取り出されたクルミがあります。
最近ではリスですら、自分でクルミの殻を割らないのでしょうか。

スペインの古い静物画の中にある、人々の生命を支えるクルミが欲しいのです。

僕は胸中の空洞に靴音を響かせながら、地下鉄のホームに向いました。

2015年10月30日金曜日

窓の内から虎猫が僕を見ていますが、少しも僕には懐こうとしません。
猫は縞模様のしっぽの先を、細かく揺らしています。

小さな庭には黄色いツツジが咲いていました。手前には誰も乗らなくなった赤いスクーターが雨ざらしになっています。そこに腰掛けると、シートの裂け目から雨水がズボンに染みました。

柿の木には秋になると必ず実がなります。
橙色の実を捥ぎ、ジーンズで磨いてから齧ると、口中に渋味が広がりました。
柿の木の下には、大きな鳥籠がかけられています。
中には白い文鳥が二羽、忙しなく動き回っていました。
地面には落ちた餌を狙って、雀がやってきます。

少年が小さな家の玄関で、赤いバットに顎を乗せて座っていました。
遠くの方では大きな蜂の羽音がします。

午後1時になると、近所から三味線の音が聞こえてきました。
電信柱の上では、鳩がとぼけた声で鳴いています。

窓際に置かれていた大きな白熊の人形は、今どこにあるのでしょう。
すでにここにはありませんが、捨てた覚えもありません。
人形は立ち去り、静かに旅に出ます。
遠くに聞こえる橋を渡る列車の音。僕の知らない街へと行ってしまいました。

母は家にいます。父は外で働き、姉は学校にいきました。
僕は石段に腰をかけています。

風が吹きました。頭頂部の髪が揺れます。
小さな世界がそこにありました。

これは最近思い出したことです。

2015年10月29日木曜日

街の5年

学生時代の友人が5年ぶりに東京に来ました。
彼の目に映る東京では、新しいものと変わらないものとが、まだ混ざり合ってはいません。

御茶ノ水の古い喫茶店で珈琲を飲みました。
この店は何十年も変わらず開いていますが、そのテーブルで向かい合う二人は、5年前とは違った人間になっています。
懐かしい思い出話をしましたが、過ぎ去りし日々への距離は一向に縮まりません。

彼を見送った後、一人で再び街を歩きました。
たくさんの鳥が駅前の街路樹に止まっていますが、暗くてどんな鳥なのかが確認できません。
騒がしい鳴き声で頭が一杯になり、風景が歪んで見えました。

2015年10月28日水曜日

風に乗る

薄暗い部屋の中で、いつか行った河川敷を思い出します。
見上げた空を斜めに渡る飛行機、鋭い風はもうそこにはないでしょう。雲は小さな手では決して届かない、無力さの象徴のようでした。

成長した僕の腕でも未だに雲に手が届かず、風に乗るにはあまりに重くなった身体です。
もしかしたら、あの河川敷では、風に乗ってどこか遠くにいけたのかもしれません。

夕暮れの中、飛行機は大勢の乗客、荷物を乗せて南へ向いました。
蝙蝠が同じ場所を忙しなく飛び回っています。

僕の荷物は自分が思っているほど重くはないのです。

2015年10月23日金曜日

静寂の底

昼下がりの小道、特別なことはなくても、不意に感じる匂いで、どこか懐かしい場所や時間に、意識が運ばれていくことがあります。
少しでも動くとまた忘れてしまうような感覚を、その良し悪しに関わらず、どうにか残せないものかと思い、立ち止まり耳を澄ませます。

いつもの曇り空。
近所にある友人の家の裏側には、フェンスに絡まる乾いた蔓がありました。茶色い実を指先で揉むと、黒い三角形の種が残ります。地面には固くなったプラスチックの容器の破片が散らばっていました。
僕はしばらくその様子を見て、衝動的に自分の家まで全力で走りました。

ここに隠喩はありません。これは物語ではないからです。

静寂は、耳鳴りよりも具体的な音を宿しています。そしてそれはいつでも過去からやってくるようです。

2015年10月14日水曜日

ケーキとお墓

気持ちのいい秋晴れの下、大学の近くにある広い墓地の中を歩きました。何人かの人々とすれ違いましたが、どの人も落ち着いた表情をしています。

そもそもなぜ墓地の中を歩いているかというと、その先にある評判の洋菓子店でケーキを買うためです。自分にとってケーキは嗜好品であり、この世を楽しむために欠かせません。

自分の死について考えると行き詰まりますが、他人の死には思い当たることがあります。その人がいなくなっても、世界は続きます。お墓は骨を納める場所ですが、本人がその様子を見ることはできません。そのため、お墓はいらないという考えもあるでしょう。
しかし、古代から人は墓を作ります。それは残されたものがその人に手を合わせるためだけではなく、自らの死後、誰かが自分のことを思い出していることを想像するためなのでしょうか。そうすると、すれ違う人々の顔の穏やかさに合点がいくのです。

帰り道、再びそのお墓を通るとき、行列をして買ったケーキを片手に、僕も死んだらお墓がほしいと初めて思いました。
それは必ず必要なものではないけれど、あれば生が死に飲込まれそうなときに、抗う力になってくれるかもしれません。

洋菓子店で見かけた猫が、墓地を抜けたお寺に先回りしていました。
猫はこの辺りの道に詳しいようです。

2015年10月11日日曜日

背の高い青年

早朝、電車で本を読んでいたら、辺りが急に暗くなりました。
本から目を上げると、ジャージを着た背の高い若者たちに囲われています。胸にはバレーボールのイラストが描かれていました。

楽しそうに戯れ合う二人組。椅子に座って携帯ゲームをしている青年。窓ガラスで頻りに前髪をなおしている青年。やっていることは様々ですが、皆一様に背が高いのです。

同じ駅で下車した私たちはそれぞれ逆の出口に歩いていきます。
僕は仕事に向い、彼らは試合に向います。

夜のホームで帰りの電車を待っています。彼らの姿はありません。

2015年10月9日金曜日

揺れる小舟

近頃では、朝夕に寒さを感じます。
少し前までは、暑さから逃れるために日陰を探して歩いていたのに、昨日は日向を探して歩きました。

橋の上で、川と空の様子を見ることが習慣となっています。今日も小舟が水面に揺れ、遠くから連なっていく雲は、僕の頭上を越えていきました。

このような時間を平穏だと感じることもありますが、実際には絵の中の混沌と向き合うための準備にすぎないのです。

2015年10月6日火曜日

赤い実

ある夏の日に、祖父母の家で、縁側から大きなカタツムリを眺めていたら、軒下に白蛇がやってきました。
外で生きているのにも関わらず、汚れ一つない輝く身体に、目が離せなくなります。
滑るように身体を左右に振りながら、背の低い草の生い茂る林に入っていきました。

そこに生える木には、春になると赤くて甘酸っぱい実がなると母から聞いたことがあります。
僕は夏と冬にしかここに来たことがないから、その実を見たことはありません。

子どもの頃のことです。

雨上がりの夕焼けを閉じ込めたような、空豆型の実。

2015年10月5日月曜日

薄桃色の壁画

窓から日が差し込み、ソーダ水を照らしました。
白いテーブルにはサップグリーンの影が落ちます。
ストローを揺らすと影も揺れて、ソーダ水の泡が忙しそうにグラスの中を行き交いました。

喫茶室の壁には薄桃色の壁画が描かれています。
白い人のシルエットが天に昇っていく様子です。

建物の中心には、イサム・ノグチの「コケシ」がありました。

2015年10月2日金曜日

語ること、描くこと

自分について語るには、習慣が必要です。
しばらく話していないと、そのことがとても重大なことに思え、なかなか口を開けなくなります。
絵を描くこともそれとよく似ています。
身についた技術はあまり衰えませんが、一度描かなくなると、技術は衰えなくても感覚は決して戻りません。

僕は展覧会で絵を見るときに、その画家の傑作だけが見たいわけではありません。むしろ傑作は一枚あれば十分で、迷いや見当違いが表れている作品を見入ることの方が目的なのです。いい作家はどんな駄作や実験作にも葛藤があります。そこに価値を持たせることができる作家がいい作家と言えるのでないでしょうか。
デ・キリコは晩年、自身の作品の模写をしました。質としては初期の作品とは比較になりませんが、そこに込められた、なぜ自分の作った世界に入り込むことができないのかという疑問を感じることができます。閉ざされた門の前で、記憶を元に絵を描く老人の姿が見えるのです。
その姿が見えるからこそ、晩年の作品にも価値があると感じます。
閉ざされた門の前で手を止めてるものは、本質的に画家ではないのだと教えられるのです。

絵画は終わったという人がいます。そこは袋小路で、もはや描かないことにしか道はないそうです。
しかし、絵画は時代でもなければ、生き物でもありません。個人の営みとしてそこにあるのです。画家がそこにいれば絵は生まれます。
絵画は終わらないのです。

2015年9月30日水曜日

青空の時間

交差点で信号が青になるのを待っていました。
ここの信号は変わるのに時間がかかります。
高い空には細かな雲が散らばっていました。
昼下がりの青空は、このままずっと変わらない時を思わせます。

一本の映画を借りました。

レンタルショップを出ると、散らばった雲はレモン色に照らされています。
シャツ一枚では肌寒く、カーディガンを羽織ってくるべきでした。

2015年9月28日月曜日

花の香り

最近では午後5時にもなると日が陰りはじめます。
夕方、薄暗くなった街を歩いていると、古い喫茶店の入り口に、鮮やかなオレンジ色の花が咲いているのが見えました。直径10㎝ほどの、夏の落とし物のような花です。暑さの記憶がよみがえります。今年の夏は7月の初めに突如やってきて、8月の終わりの雨と共に去っていきました。

香りに誘われる羽虫のように近寄ってみると、それが造花であることに気がつきました。
夏は古い喫茶店に落とし物をしておらず、気がついた途端に花は香りを失い、ひどく寂しいもののように見えるのでした。

街には金木犀の強い香りが漂っています。
今夜は雨の予感を漂わせた曇り空ですが、十五夜の月が雲間から見えました。

2015年9月23日水曜日

アーチ橋

深夜2時の道には人影もなく、時折タクシーや大型トラックが、自転車に乗った僕を追い抜いていきました。
家までの道は基本的には平坦なのですが、一本の川があるため、長いアーチ橋を渡らなくてはなりません。
立ちこぎで頂点まで進むと、向かいから若い女性が二人やってきました。
彼女たちは賑やかな声で笑い合い、どこかに向っている様子です。
連休の中日、おそらくどちらかの家に行き、朝まで語らうのでしょう。

学生時代に繰り返した懐かしい日々を思い出しました。
朝を待つ部屋。
ビールの空き缶と食べ残したスナック菓子。籠った空気。
眠ってしまった友人にタオルケットを掛け、窓を開けて煙草のにおいを逃がします。
しばらくすると東の空が白みはじめ、カラスが鳴きました。直に電車も動き出すでしょう。
昨晩の盛り上がった気分は泡のように弾け、もはや本当にそんなものが存在したのかも怪しく思えます。

川を渡りきったところにはコンビニエンスストアがあります。
あまりにも眩しい蛍光灯の光に、僕の心は照らされ、身体が宙に浮いてしまったようです。ペダルを漕ぐ脚を動かしている感覚がなくなりました。
窓際には、雑誌を立ち読みしている男性が見えます。

2015年9月18日金曜日

青年とカラス

今日も雨が降りました。
冷たい雨で、駅までの道を、いつもより長く感じさせました。
風のない日の空は、一面グレーに塗られ、雨雲の存在すら消してしまいます。
カラスが一羽、高い鳴き声をあげて、マンションの上を通り過ぎていきました。
マンションのベランダには煙草をふかしている青年の姿が見えます。
あの青年にもカラスが見えたのかが、何故だかとても気になりました。

2015年9月15日火曜日

風を切る

激しい雨と、空の高い晴れの日が繰り返されるたびに、秋が深まっていきます。
綿のカーディガンを羽織り、昼間のアスファルトの道を、自転車で進みました。

よく覚えてはいませんが、昨年も同じように季節が巡っていたのでしょう。
10年前も20年前もきっと同じようであったはずです。

心地よかったはずの風を、少し肌寒く感じました。

2015年9月14日月曜日

夕刻の色

日曜日の夕方、ソファーに横たわり本を読んでいると、部屋中が暖かい光に包まれていることに気がつきました。
窓を開けると、そこには古いモノクロ写真のような世界が広がっています。
見慣れたはずの向かいの家や電信柱を、手が届かないもののように感じ、僕は世界との接点を失った気がして、途方に暮れました。

2015年9月7日月曜日

「あ」とか「うん」

部屋で一人、何かの確認のように言葉を発することがあります。
言葉自体に意味はなく、ただ「あ」とか「うん」とかそのようなことです。

どんなことにも意味があると考え、自分を奮い立たせることもありますが、本当にそんなことになったら、きっと生活することが嫌になってしまいます。

2015年8月4日火曜日

美じょん新報 第190・191号

美じょん新報 第190・191号に、NICHE GALLERYでの個展のレビューを書いていただいきました。
瀧梯三先生には大学院修了後から、毎回こちらに個展の紹介をしていただいております。

ビジョン企画出版社 「美じょん新報」
第190・191号 8月1日発行

よろしくお願いいたします。

2015年7月27日月曜日

アートコレクターズ8月号

アートコレクターズ8月号にNICHE GALLERYでの個展「絵画風景」のレビューを書いていただきました。(P104 展覧会レポート編集部の「これが欲しかった!」)
7月25日発売です。宜しくお願いいたします。

アートコレクターズ8月号(生活の友社)

2015年7月5日日曜日

次の風景



NICHE GALLERYでの個展「絵画風景」が終了いたしました。

会期中は梅雨で雨の日が多く、画廊の窓から見える鈍色の風景を眺めながら、様々なことを考えました。

キャンバスの向こう側に風景を見る試みには、まだ続きがありそうです。
自分自身が新しい風景を見たくて、目前にそれが現れることに、いつも胸を高鳴らせているのです。

お越しくださった皆様、誠にありがとうございました。
今後とも宜しくお願いいたします。

2015年6月20日土曜日

大川心平個展-絵画風景-



「絵画風景」

いつの日からか、白いキャンバスの向こう側に広がる風景が、私には見えるようになりました。
それを辿るように、絵具を乗せると、既視感のある風景が現れるのです。

キャンバスの向こう側にはもう一つの世界があるようです。
そこはこちらの世界とよく似た世界で、不条理や未知、私を置きざりにする時間があります。
筆は流れる時間に遅れながらも、それに着いていこうとしますが、それは宿命的に後手にまわります。
その宿命に立ち向かうためには、現実に改変を求めなくてはなりません。
私には想像力があります。それを使うことではじめて、筆は時間を追い抜くことができるのです。

私はキャンバスの向こう側を『絵画風景』と名付けます。



大川心平 個展 「絵画風景」

2015年6月22日(月)〜7月3日(金)
11時〜18時30分
※6月28日(日)は休廊致します。

NICHE GALLERY
東京都中央区銀座3−3−12 銀座ビルディング3F
03−5250−1006

ご高覧いただけますようよろしくお願いいたします。

2015年5月28日木曜日

アートコレクターズ6月号



アートコレクターズ6月号(生活の友社)の風景画特集に、「背後への期待」という作品を掲載していただきました。(P54、55)

5月25日より書店にて発売されているので、宜しくお願いいたします。

2015年4月27日月曜日

大川心平個展-未熟な曲芸師-


『未熟な曲芸師』

常に足下には注意を払うべきだ。
幸福は綱渡りで、細いロープの上を渡る曲芸師は、度々落下する。
下に張ったネットもいずれ破けるだろう。
日常は薄氷の上に存在している。バランスを崩すと氷は割れて、非日常の冷たい水中に沈んでしまう。
虚構にも存在感のあるこの世界では、現実を一本の線として捉える事はできない。
実体を感じる事ができる細部を、日常の中で拾い、それを細かく繋いで舞台を作り上げる。
世界は常に複合体だ。舞台の上に、複数のディティールが関係し合う事で世界が生まれる。
日常的な断片は、画面において、複合体となり、世界を表現する。
それは虚構ともいえるが、元来絵画は虚構であり、静止した平面である。
私はその上で現実が信頼に足るものなのかを問い、虚構の中に現実感を吹き込む。
架空の舞台では、自分の意志とは無関係に役割が用意されている。
役になりきる事ができれば喝采を浴びるが、足を踏み外せば嘲笑される。
私の作品の登場人物は、台本を持たない未熟な曲芸師である。

会期 2015年 4月15日〜4月24日
GALLERY GODO
12 Susong-dong, Jongno-gu,Seoul,Korea 110-140

2015年1月16日金曜日

ベッドの中

ぼやけた世界。僕の目には、あるはずの美しい世界が未だに見えません。

朝の光がカーテンを通過して、部屋を柔らかく満たしています。天井にはカラスのような光の欠片が、いくつか散らばっていました。

僕はベッドの中で目を開けています。

近所の小学校からトランペットの音が聞こえてきました。
子どもの頃の記憶が次々に思い浮かび、僕は顔まで毛布も持ち上げます。

音楽室の穴の空いた壁。壇上で一人歌った外国の歌。先生の黒いピアノ。
終業のチャイムが鳴り、薄暗い廊下を歩きました。

放課後の校庭は、パン工場からの甘い匂いが漂います。
曇った空を見上げても、遠くには近所のマンションしか見えません。
不意に強い風が吹きました。僕はそれに怯え、走って家に帰ります。


ある日、街を廻るどぶ川にコンクリートの蓋がつけられました。
近所のおばさんが、この川に落ちて死んだ子どもの話しを聞かせてくれました。
本当の話かどうかはわかりません。いずれにしてもずっと昔の話です。

僕はよくそこに葉っぱを投げ込んでいました。
それらはしばらく浮かんだ後、ゆっくり沈みます。
へどろで底の見えないどぶ川は、どこか知らないところと繋がっている気がしました。

白く粉っぽい色をした蓋は、僕の街には馴染んでいないように感じましたが、風化するにしたがって、他のものと変わらない様子となるでしょう。


僕はベッドからは出ません。
枕元にある本を開きました。そこには昨夜の続きの物語があります。

僕はベッドからは出ません。
そして目を閉じました。そこには強い風に怯える大人がいます。