2017年1月6日金曜日

現在の制作について

どんな絵を描いているのかという質問を受けると、はっきりと答えることができないことがあります。また、好きな作家を聞かれる時にも、すぐには答えることができません。テーマにしても影響を受けた作家にしても、多すぎたりその時々に変化するので、準備したものをすぐに答えるということができないのです。

そのため、まずは現在の制作について書いてみようと思います。素材は主に油絵具と市販のキャンバスを使っています。またペン画を描くこともあり、その時にはアルシュという水彩紙に描いています。素材に関してもその時々によって変化します。以前は荒目のキャンバスに描いていましたが、最近は細目のキャンバスに描くことが増えました。今後もきっと変化していくと思います。メーカーの都合により、それまで使っていた素材が使えなくなることもあります。特に2016年にはそのようなことが続きました。
描画を考える上で、素材は大切であるかもしれません。しかしそうすると、これまでの自分の画材選びはもう一度考え直す必要があります。これまでは日々の流れの中で、受動的に画材を選択することが多かったからです。たまたま出会った画材でも、その使い心地に慣れれば、問題なく使えることがほとんどですが、そのことで完成のイメージに遠回りすることがあるかもしれません。その辿辿しさが時間を経た時に、絵画の個別性に繋がるものなのかは吟味が必要です。他者の多くの作品と触れ合う中で、体感として判断する力が身につくと考えます。

これまでペン画では人物を描くことはしませんでした。それは思考プロセス的に油絵では建物や風景などの場に当たるものを確定してから人物を登場させていたからです。しかしそうするとペン画はどこまでいっても場でしかなく、ペン画の完成は油絵の未完成だということになるのではないかという疑惑が湧いてきました。そこでそのような状況から脱するために、ペン画でも人物を登場させることを試みています。私はペン画を描く時にも鉛筆など消すことができるような素材で下描きのようなことはしません。そのため、人物を入れるとなると、まだはっきりと設定が見えていない段階から、人物を描きいれる必要があります。ある意味それは油絵のプロセスから離れることでもあります。そのようにして出来上がったペン画作品は、普段の油絵の完成と意味としては近づきました。また油絵と関係が深くなったことで、ペン画も主な作品となり得るのではないかということと、逆に直接的に油絵に活かせる可能性があるのではないかと感じています。
油絵はペン画と同じように直感的な描画が基本ですが、重ねることができるので、上描きや修正を繰り返すことができます。しかし仮に素材面でもっとストレートにイメージの完成を目指すのならば、あまりにも直感に頼る制作では工芸的な完成度を上げづらいのかもしれません。下描きをしないことでできてくるイメージというのが、自分の中には確かに存在し、それこそが自分の作品の生命線であるという認識はありますが、最初の構成の軸やコンセプトはペン画の段階で作り出しておき、そこから油絵をスタートさせるということも考えられるかもしれません。それは油絵の特性を活かしたり、同テーマで制作するという点において、ペン画が本作品として完成するということと矛盾しないのです。

また実際に制作をする上で、大きな興味となっていることは、画面の中にいかなる奥行きを作っていくかです。私は17歳の時に油絵を習い始め、そこでセザンヌ、ピカソ、ドガなどの近代作家を美意識の頂点とした美術教育を受けました。そこではデッサンなどの写実的な空間把握でさえも、画面を平面化していくための一段階として理解されていました。最初の教育というのはやはり影響が残るようで、無暗に奥行き感を出すことには未だに抵抗を感じます。ではなぜ大袈裟な奥行きを出してはならないのでしょうか。
思い返してみると、そこには通俗性というキーワードがあったように思います。現実的な奥行き感は平凡な構成を生み、現実を表現するのではなく、説明することに終始した取るに足らない絵となるといったようものです。確かに美術史には流れがあります。何らかの反動によって新鮮に見える様式が発見されることもあるでしょう。しかしいかなる発展でさえ、それは次の流れの予兆でしかなく、乗り越えられる前段階としてしか存在できません。アカデミズムの反動が近代の作家を生んだのであれば、その反動が現代美術であり、今も細部での反動が続いているのだと思います。
そういった反省を踏まえて奥行きを考えると、やはり自分は広い空間や光と影のコントラスト、その色彩に抗いがたい魅力を感じていることを自覚せずにはいられません。それは美術史の流れへの反動ではなく、現代の生活者としての視座を立脚点としており、限られた生命の中で自らが責任を持ってやるべき制作だと思うのです。
それを実現する上で、現在の私にはできないことがあります。それはモチーフを越えた光の設定です。それができないのは制作過程に大きな問題があります。刹那的に設定や構図を変更するため、常にあたかもそのものしか存在しないかのような設定で、それぞれのモチーフを描いているのです。初期から決まった設定で制作しないことにはこの問題は解決しません。しかしそうすると、自分は自らが知っていることしか描くことができず、それこそ平凡で取るに足らない作品を作り続けることとなります。そこでペン画があるのです。2013年に制作していたペン画は先に述べたように油絵でいう場であるということを踏まえた上で、できる範囲の制作をしましたが、現在私が志向しているペン画はその範疇を超えたものです。油絵と同等な意識で描かれたペン画を元に油絵を描くのであれば、先に光の設定を決めることもできるはずなのです。

最近試みていることの一つに、木による模型作りがあります。美術的な価値観や洗練が入らないようなものをイメージしています。一度作った模型はこちらの意図とは関係なく、そこにすでに存在しているものとして主張してくるようです。立体物には粗野な力強さを感じます。それは自分が街に取り残されたような古い民家や役割を終えた日用品から受ける印象と似ているようです。
模型を作り始めた動機は、並び替えによる配置を考えることで、画面構成の軸を描き始める前に、検討をつけることができるのではないかと考えたからでした。以前にも木彫から絵画を考えたことがあります。それは19歳の時で、絵画における描写に行き詰まり、木彫のように大きな形から何らかの形態を削り出すことで、描写への理解を深めることが目的でした。粘土のように足していく形態の意識では緊張感のある描写ができないのではないかと考えたのです。そこにはデューラーやグリューネヴァルトなどの北方ルネサンスの作家からの影響があります。影響を受けた作家を聞かれた時に、それらの作家の名前が出るのは、当時のことを思い浮かべての発言です。現在自分が木を削っている時には、それがどのように構成的に絵画に還元されるかよりも、削ることで形態を出現させること自体に意味が強まっているようです。
模型は私が作りながらも、他者としての存在感を持っています。自分で作りながらも他者性を持つ模型と、他者が作った他者性を持つ民家や日用品などのモチーフが、どのように関連し合うかが、現在の模型作りに対する興味の中心です。


今回は実制作における現在地を書きました。これは極めて個人的で、しかも2017年1月における私の制作に過ぎません。この取り組みの中から生まれる成功と失敗を糧にして、少しでも制作を前進させていきたいと考えています。
今年もどうぞ宜しくお願い致します。