2015年10月30日金曜日

窓の内から虎猫が僕を見ていますが、少しも僕には懐こうとしません。
猫は縞模様のしっぽの先を、細かく揺らしています。

小さな庭には黄色いツツジが咲いていました。手前には誰も乗らなくなった赤いスクーターが雨ざらしになっています。そこに腰掛けると、シートの裂け目から雨水がズボンに染みました。

柿の木には秋になると必ず実がなります。
橙色の実を捥ぎ、ジーンズで磨いてから齧ると、口中に渋味が広がりました。
柿の木の下には、大きな鳥籠がかけられています。
中には白い文鳥が二羽、忙しなく動き回っていました。
地面には落ちた餌を狙って、雀がやってきます。

少年が小さな家の玄関で、赤いバットに顎を乗せて座っていました。
遠くの方では大きな蜂の羽音がします。

午後1時になると、近所から三味線の音が聞こえてきました。
電信柱の上では、鳩がとぼけた声で鳴いています。

窓際に置かれていた大きな白熊の人形は、今どこにあるのでしょう。
すでにここにはありませんが、捨てた覚えもありません。
人形は立ち去り、静かに旅に出ます。
遠くに聞こえる橋を渡る列車の音。僕の知らない街へと行ってしまいました。

母は家にいます。父は外で働き、姉は学校にいきました。
僕は石段に腰をかけています。

風が吹きました。頭頂部の髪が揺れます。
小さな世界がそこにありました。

これは最近思い出したことです。

2015年10月29日木曜日

街の5年

学生時代の友人が5年ぶりに東京に来ました。
彼の目に映る東京では、新しいものと変わらないものとが、まだ混ざり合ってはいません。

御茶ノ水の古い喫茶店で珈琲を飲みました。
この店は何十年も変わらず開いていますが、そのテーブルで向かい合う二人は、5年前とは違った人間になっています。
懐かしい思い出話をしましたが、過ぎ去りし日々への距離は一向に縮まりません。

彼を見送った後、一人で再び街を歩きました。
たくさんの鳥が駅前の街路樹に止まっていますが、暗くてどんな鳥なのかが確認できません。
騒がしい鳴き声で頭が一杯になり、風景が歪んで見えました。

2015年10月28日水曜日

風に乗る

薄暗い部屋の中で、いつか行った河川敷を思い出します。
見上げた空を斜めに渡る飛行機、鋭い風はもうそこにはないでしょう。雲は小さな手では決して届かない、無力さの象徴のようでした。

成長した僕の腕でも未だに雲に手が届かず、風に乗るにはあまりに重くなった身体です。
もしかしたら、あの河川敷では、風に乗ってどこか遠くにいけたのかもしれません。

夕暮れの中、飛行機は大勢の乗客、荷物を乗せて南へ向いました。
蝙蝠が同じ場所を忙しなく飛び回っています。

僕の荷物は自分が思っているほど重くはないのです。

2015年10月23日金曜日

静寂の底

昼下がりの小道、特別なことはなくても、不意に感じる匂いで、どこか懐かしい場所や時間に、意識が運ばれていくことがあります。
少しでも動くとまた忘れてしまうような感覚を、その良し悪しに関わらず、どうにか残せないものかと思い、立ち止まり耳を澄ませます。

いつもの曇り空。
近所にある友人の家の裏側には、フェンスに絡まる乾いた蔓がありました。茶色い実を指先で揉むと、黒い三角形の種が残ります。地面には固くなったプラスチックの容器の破片が散らばっていました。
僕はしばらくその様子を見て、衝動的に自分の家まで全力で走りました。

ここに隠喩はありません。これは物語ではないからです。

静寂は、耳鳴りよりも具体的な音を宿しています。そしてそれはいつでも過去からやってくるようです。

2015年10月14日水曜日

ケーキとお墓

気持ちのいい秋晴れの下、大学の近くにある広い墓地の中を歩きました。何人かの人々とすれ違いましたが、どの人も落ち着いた表情をしています。

そもそもなぜ墓地の中を歩いているかというと、その先にある評判の洋菓子店でケーキを買うためです。自分にとってケーキは嗜好品であり、この世を楽しむために欠かせません。

自分の死について考えると行き詰まりますが、他人の死には思い当たることがあります。その人がいなくなっても、世界は続きます。お墓は骨を納める場所ですが、本人がその様子を見ることはできません。そのため、お墓はいらないという考えもあるでしょう。
しかし、古代から人は墓を作ります。それは残されたものがその人に手を合わせるためだけではなく、自らの死後、誰かが自分のことを思い出していることを想像するためなのでしょうか。そうすると、すれ違う人々の顔の穏やかさに合点がいくのです。

帰り道、再びそのお墓を通るとき、行列をして買ったケーキを片手に、僕も死んだらお墓がほしいと初めて思いました。
それは必ず必要なものではないけれど、あれば生が死に飲込まれそうなときに、抗う力になってくれるかもしれません。

洋菓子店で見かけた猫が、墓地を抜けたお寺に先回りしていました。
猫はこの辺りの道に詳しいようです。

2015年10月11日日曜日

背の高い青年

早朝、電車で本を読んでいたら、辺りが急に暗くなりました。
本から目を上げると、ジャージを着た背の高い若者たちに囲われています。胸にはバレーボールのイラストが描かれていました。

楽しそうに戯れ合う二人組。椅子に座って携帯ゲームをしている青年。窓ガラスで頻りに前髪をなおしている青年。やっていることは様々ですが、皆一様に背が高いのです。

同じ駅で下車した私たちはそれぞれ逆の出口に歩いていきます。
僕は仕事に向い、彼らは試合に向います。

夜のホームで帰りの電車を待っています。彼らの姿はありません。

2015年10月9日金曜日

揺れる小舟

近頃では、朝夕に寒さを感じます。
少し前までは、暑さから逃れるために日陰を探して歩いていたのに、昨日は日向を探して歩きました。

橋の上で、川と空の様子を見ることが習慣となっています。今日も小舟が水面に揺れ、遠くから連なっていく雲は、僕の頭上を越えていきました。

このような時間を平穏だと感じることもありますが、実際には絵の中の混沌と向き合うための準備にすぎないのです。

2015年10月6日火曜日

赤い実

ある夏の日に、祖父母の家で、縁側から大きなカタツムリを眺めていたら、軒下に白蛇がやってきました。
外で生きているのにも関わらず、汚れ一つない輝く身体に、目が離せなくなります。
滑るように身体を左右に振りながら、背の低い草の生い茂る林に入っていきました。

そこに生える木には、春になると赤くて甘酸っぱい実がなると母から聞いたことがあります。
僕は夏と冬にしかここに来たことがないから、その実を見たことはありません。

子どもの頃のことです。

雨上がりの夕焼けを閉じ込めたような、空豆型の実。

2015年10月5日月曜日

薄桃色の壁画

窓から日が差し込み、ソーダ水を照らしました。
白いテーブルにはサップグリーンの影が落ちます。
ストローを揺らすと影も揺れて、ソーダ水の泡が忙しそうにグラスの中を行き交いました。

喫茶室の壁には薄桃色の壁画が描かれています。
白い人のシルエットが天に昇っていく様子です。

建物の中心には、イサム・ノグチの「コケシ」がありました。

2015年10月2日金曜日

語ること、描くこと

自分について語るには、習慣が必要です。
しばらく話していないと、そのことがとても重大なことに思え、なかなか口を開けなくなります。
絵を描くこともそれとよく似ています。
身についた技術はあまり衰えませんが、一度描かなくなると、技術は衰えなくても感覚は決して戻りません。

僕は展覧会で絵を見るときに、その画家の傑作だけが見たいわけではありません。むしろ傑作は一枚あれば十分で、迷いや見当違いが表れている作品を見入ることの方が目的なのです。いい作家はどんな駄作や実験作にも葛藤があります。そこに価値を持たせることができる作家がいい作家と言えるのでないでしょうか。
デ・キリコは晩年、自身の作品の模写をしました。質としては初期の作品とは比較になりませんが、そこに込められた、なぜ自分の作った世界に入り込むことができないのかという疑問を感じることができます。閉ざされた門の前で、記憶を元に絵を描く老人の姿が見えるのです。
その姿が見えるからこそ、晩年の作品にも価値があると感じます。
閉ざされた門の前で手を止めてるものは、本質的に画家ではないのだと教えられるのです。

絵画は終わったという人がいます。そこは袋小路で、もはや描かないことにしか道はないそうです。
しかし、絵画は時代でもなければ、生き物でもありません。個人の営みとしてそこにあるのです。画家がそこにいれば絵は生まれます。
絵画は終わらないのです。