2015年10月2日金曜日

語ること、描くこと

自分について語るには、習慣が必要です。
しばらく話していないと、そのことがとても重大なことに思え、なかなか口を開けなくなります。
絵を描くこともそれとよく似ています。
身についた技術はあまり衰えませんが、一度描かなくなると、技術は衰えなくても感覚は決して戻りません。

僕は展覧会で絵を見るときに、その画家の傑作だけが見たいわけではありません。むしろ傑作は一枚あれば十分で、迷いや見当違いが表れている作品を見入ることの方が目的なのです。いい作家はどんな駄作や実験作にも葛藤があります。そこに価値を持たせることができる作家がいい作家と言えるのでないでしょうか。
デ・キリコは晩年、自身の作品の模写をしました。質としては初期の作品とは比較になりませんが、そこに込められた、なぜ自分の作った世界に入り込むことができないのかという疑問を感じることができます。閉ざされた門の前で、記憶を元に絵を描く老人の姿が見えるのです。
その姿が見えるからこそ、晩年の作品にも価値があると感じます。
閉ざされた門の前で手を止めてるものは、本質的に画家ではないのだと教えられるのです。

絵画は終わったという人がいます。そこは袋小路で、もはや描かないことにしか道はないそうです。
しかし、絵画は時代でもなければ、生き物でもありません。個人の営みとしてそこにあるのです。画家がそこにいれば絵は生まれます。
絵画は終わらないのです。