2017年12月1日金曜日

美じょん新報 第218号

美じょん新報 第218号に、京王プラザホテルロビーギャラリーでの個展「遠い声」のレビューを書いていただいきました。
主筆の瀧悌三先生には継続して批評してくださり誠に感謝しております。

ビジョン企画出版社 「美じょん新報」
第218号 11月20日発行

宜しくお願いいたします。

2017年9月7日木曜日

大川心平 個展-遠い声-

「遠い声」

過去には確かに存在したが、時間の経過とともに本来の意味から離れ、断片的で不鮮明となった忘れ難いたくさんの記憶。これらが同一画面上で重なり合うことで結びつき、確かな輪郭を再び獲得します。そこで現れた風景は特定の場所や時間を表さないのにも関わらず、既視感や過ぎ去りし感情を呼び起こすのです。


大川心平 個展 「遠い声」

2017年10月1日(日)〜10月9日(月)
10時〜19時00分
※最終日16時まで

KEIO PLAZA HOTEL TOKYO
〒160−8330 東京都新宿区西新宿2−2−1 
京王プラザホテル 本階3階 / ロビーギャラリー
03−3344−0111

大作「Sing」を中心に、新シリーズ「Family」の連作、油彩、ドローイングの新作旧作を合わせて展示いたします。どうぞご高覧ください。

2017年8月8日火曜日

祭りの後

大きな橋を一本渡り、真昼の総合病院に行きました。そこは周辺のショッピングモールよりも混雑した様子で、静かな活気に満ちています。

診察を待つ人々は、血圧を測ってから、質素な椅子に腰掛け、順番を知らせるモニターをじっと見つめています。
気がつくと僕もその中に同化し、透明な存在として、診察番号が自らを表す全てであるかのように感じていました。

診察の順番は予定時刻を過ぎてもやって来ず、昼食を食べて待つこととなりました。
一階のカフェには空席がなく、僕は食欲もないまま三階のレストランに向かいました。
渡って来た川が一望できる席に座ると、すぐに店員が水を持って来ました。背の高い夏の雲を眺めながらその水を口に含むと、水はとても温く、ここが病院であることを思い出させました。

入り口に近い席には親子のように見える二人が向かい合って座っています。
微笑みを浮かべた老紳士に、手前の女性は「笑っている場合じゃないでしょ」と大きな声で責め立てていました。しかし老紳士は少しも表情を変えず、向かいに座った女性の背後をただ静かに見ています。
ここには何らかの病を抱えた人々が集っています。二人のうちのどちらが大きな病を抱えているのでしょうか。

川沿いの路肩に軽自動車が止まっています。側にはボンネットを開けて呆然としている水色のシャツの男が立っていました。
眼に映る全てのものが故障を抱えているかのように見えます。僕も水色のシャツの男と同じように、この状況になすすべなく立ちすくしているだけなのかもしれません。

病院の隣りの公園では櫓が建てられています。今夜は盆踊りがあるようです。この病院からどれほどの人が他界したのでしょうか。色とりどりの揺れる提灯。踊る魂。消えた肉体。

ラジオからは夜中に上陸する台風への警戒を呼びかける放送が流れています。
この街は祭りの後には雨の中でしょう。窓を叩く波のような風雨は、病院から届く彼らの鼓動のリズムと重なります。

どうか次の朝までこの波が途絶えませんように。

2017年8月5日土曜日

赤い自転車

赤い自転車を買いました。
大きく細いタイヤは僕を乗せて、一漕ぎするたびに鋭く風を切って進んでいきます。

現在の僕の心には生活における大きな充実感があります。
しかし日々の充実感を、生きる目的と混同すべきではありません。
世界がいかに美しくても、美術は存在理由を失わないからです。

セミの鳴き声は日ごとに強くなります。伸ばした腕は夏の日差しにジリジリと照らされ、シャツと肌との境界に跡を残しました。

いくら速く自転車を漕いだとしても、僕は僕から離れることはできませんが、心の中には永遠を想起させる地平が広がっています。

2017年8月4日金曜日

絵画の目



「絵画の目」

出展者
滝純一・河内成幸・大庭英治・三村伸絵・工藤晴也・樺山祐和・川合朋郎・藤田邦統・今井麗・大川心平・西村冨彌

2017年7月15日〜7月30日
10時〜19時

みぞえ画廊(福岡店)
福岡県中央区地行浜1−2−5
092−738−5655

2017年5月26日金曜日

大川心平 個展-卓上の街-


「卓上の街」
ソウルにあるGALLERY GODOで4度目の個展がありました。早いもので初めて韓国で展示してから7年の月日が経過しました。
韓国のギャラリストやコレクターの皆様には、継続した制作の後押しをしていただき、誠に感謝しております。


2017年 4月12日〜4月18日
GALLERY GODO
24,Yolgok-ro, Jongno-gu,Seoul,Korea
Tel 82-2-720-2223
Fax 82-2-720-2224

2017年2月24日金曜日

美じょん新報 第209号

美じょん新報 第209号に、銀座スルガ台画廊でのグループ展「葵の会」のレビューを書いていただいきました。
誌上では『超現実の大川心平』と評していただいております。
客観的に見て、私を端的に表すのに『超現実』というキーワードは外せないだろうと思う一方、様式としての『超現実』に現代の生活者である私の乗り越えるべき問題があるとは思いません。
時代背景を失った様式としてではなく、現代社会を生きる存在として『超現実』を実現したいと考えています。

ビジョン企画出版社 「美じょん新報」
第209号 2月20日発行

宜しくお願いいたします。

2017年1月6日金曜日

現在の制作について

どんな絵を描いているのかという質問を受けると、はっきりと答えることができないことがあります。また、好きな作家を聞かれる時にも、すぐには答えることができません。テーマにしても影響を受けた作家にしても、多すぎたりその時々に変化するので、準備したものをすぐに答えるということができないのです。

そのため、まずは現在の制作について書いてみようと思います。素材は主に油絵具と市販のキャンバスを使っています。またペン画を描くこともあり、その時にはアルシュという水彩紙に描いています。素材に関してもその時々によって変化します。以前は荒目のキャンバスに描いていましたが、最近は細目のキャンバスに描くことが増えました。今後もきっと変化していくと思います。メーカーの都合により、それまで使っていた素材が使えなくなることもあります。特に2016年にはそのようなことが続きました。
描画を考える上で、素材は大切であるかもしれません。しかしそうすると、これまでの自分の画材選びはもう一度考え直す必要があります。これまでは日々の流れの中で、受動的に画材を選択することが多かったからです。たまたま出会った画材でも、その使い心地に慣れれば、問題なく使えることがほとんどですが、そのことで完成のイメージに遠回りすることがあるかもしれません。その辿辿しさが時間を経た時に、絵画の個別性に繋がるものなのかは吟味が必要です。他者の多くの作品と触れ合う中で、体感として判断する力が身につくと考えます。

これまでペン画では人物を描くことはしませんでした。それは思考プロセス的に油絵では建物や風景などの場に当たるものを確定してから人物を登場させていたからです。しかしそうするとペン画はどこまでいっても場でしかなく、ペン画の完成は油絵の未完成だということになるのではないかという疑惑が湧いてきました。そこでそのような状況から脱するために、ペン画でも人物を登場させることを試みています。私はペン画を描く時にも鉛筆など消すことができるような素材で下描きのようなことはしません。そのため、人物を入れるとなると、まだはっきりと設定が見えていない段階から、人物を描きいれる必要があります。ある意味それは油絵のプロセスから離れることでもあります。そのようにして出来上がったペン画作品は、普段の油絵の完成と意味としては近づきました。また油絵と関係が深くなったことで、ペン画も主な作品となり得るのではないかということと、逆に直接的に油絵に活かせる可能性があるのではないかと感じています。
油絵はペン画と同じように直感的な描画が基本ですが、重ねることができるので、上描きや修正を繰り返すことができます。しかし仮に素材面でもっとストレートにイメージの完成を目指すのならば、あまりにも直感に頼る制作では工芸的な完成度を上げづらいのかもしれません。下描きをしないことでできてくるイメージというのが、自分の中には確かに存在し、それこそが自分の作品の生命線であるという認識はありますが、最初の構成の軸やコンセプトはペン画の段階で作り出しておき、そこから油絵をスタートさせるということも考えられるかもしれません。それは油絵の特性を活かしたり、同テーマで制作するという点において、ペン画が本作品として完成するということと矛盾しないのです。

また実際に制作をする上で、大きな興味となっていることは、画面の中にいかなる奥行きを作っていくかです。私は17歳の時に油絵を習い始め、そこでセザンヌ、ピカソ、ドガなどの近代作家を美意識の頂点とした美術教育を受けました。そこではデッサンなどの写実的な空間把握でさえも、画面を平面化していくための一段階として理解されていました。最初の教育というのはやはり影響が残るようで、無暗に奥行き感を出すことには未だに抵抗を感じます。ではなぜ大袈裟な奥行きを出してはならないのでしょうか。
思い返してみると、そこには通俗性というキーワードがあったように思います。現実的な奥行き感は平凡な構成を生み、現実を表現するのではなく、説明することに終始した取るに足らない絵となるといったようものです。確かに美術史には流れがあります。何らかの反動によって新鮮に見える様式が発見されることもあるでしょう。しかしいかなる発展でさえ、それは次の流れの予兆でしかなく、乗り越えられる前段階としてしか存在できません。アカデミズムの反動が近代の作家を生んだのであれば、その反動が現代美術であり、今も細部での反動が続いているのだと思います。
そういった反省を踏まえて奥行きを考えると、やはり自分は広い空間や光と影のコントラスト、その色彩に抗いがたい魅力を感じていることを自覚せずにはいられません。それは美術史の流れへの反動ではなく、現代の生活者としての視座を立脚点としており、限られた生命の中で自らが責任を持ってやるべき制作だと思うのです。
それを実現する上で、現在の私にはできないことがあります。それはモチーフを越えた光の設定です。それができないのは制作過程に大きな問題があります。刹那的に設定や構図を変更するため、常にあたかもそのものしか存在しないかのような設定で、それぞれのモチーフを描いているのです。初期から決まった設定で制作しないことにはこの問題は解決しません。しかしそうすると、自分は自らが知っていることしか描くことができず、それこそ平凡で取るに足らない作品を作り続けることとなります。そこでペン画があるのです。2013年に制作していたペン画は先に述べたように油絵でいう場であるということを踏まえた上で、できる範囲の制作をしましたが、現在私が志向しているペン画はその範疇を超えたものです。油絵と同等な意識で描かれたペン画を元に油絵を描くのであれば、先に光の設定を決めることもできるはずなのです。

最近試みていることの一つに、木による模型作りがあります。美術的な価値観や洗練が入らないようなものをイメージしています。一度作った模型はこちらの意図とは関係なく、そこにすでに存在しているものとして主張してくるようです。立体物には粗野な力強さを感じます。それは自分が街に取り残されたような古い民家や役割を終えた日用品から受ける印象と似ているようです。
模型を作り始めた動機は、並び替えによる配置を考えることで、画面構成の軸を描き始める前に、検討をつけることができるのではないかと考えたからでした。以前にも木彫から絵画を考えたことがあります。それは19歳の時で、絵画における描写に行き詰まり、木彫のように大きな形から何らかの形態を削り出すことで、描写への理解を深めることが目的でした。粘土のように足していく形態の意識では緊張感のある描写ができないのではないかと考えたのです。そこにはデューラーやグリューネヴァルトなどの北方ルネサンスの作家からの影響があります。影響を受けた作家を聞かれた時に、それらの作家の名前が出るのは、当時のことを思い浮かべての発言です。現在自分が木を削っている時には、それがどのように構成的に絵画に還元されるかよりも、削ることで形態を出現させること自体に意味が強まっているようです。
模型は私が作りながらも、他者としての存在感を持っています。自分で作りながらも他者性を持つ模型と、他者が作った他者性を持つ民家や日用品などのモチーフが、どのように関連し合うかが、現在の模型作りに対する興味の中心です。


今回は実制作における現在地を書きました。これは極めて個人的で、しかも2017年1月における私の制作に過ぎません。この取り組みの中から生まれる成功と失敗を糧にして、少しでも制作を前進させていきたいと考えています。
今年もどうぞ宜しくお願い致します。